Wさんは96歳。家族は主治医から生きられてもあと2カ月だと告げられた。娘さんから写真を撮って欲しいと依頼があった。その日にあわせて孫たちも呼ぶからと。Wさんは僕の母が入居していたホームで暮らしている。母の隣人だった人だ。母98歳、Wさん96歳。人生のベテラン同士の友人だ。去年の正月は一緒にお祝いもした。その時は母もWさんも笑顔で鍋をつついていた。寝たきりで笑うこともできないかもしれないと聞かされたが、僕はどうしても笑顔が撮りたいと思った。
ホームに着くとWさんはベッドに横になっていたが、この日は調子がよかったので車椅子に乗り替えた。話しかけるとちゃんと反応がある。孫たちがかわるがわる話しかけたり、からだを撫でたりしていた。反応はあるし、話しかける者をしかりした視線で見つめる。彼女はきっと笑える。きっと笑顔を見せてくれる。僕はそう思った。
しかし、笑うということは、僕らが考えるよりずっと力のいることだ。笑って!と言われても、そう簡単には笑えないのだ。あたりまえのことだが、心の奥底が笑わないとほんとうの笑顔にはなれない。笑いには元気が必要なんだ。家族のみんながいろんな話をして笑顔を待ったが、なかなか笑顔は見られなかった。
だが家族の別れ際、その瞬間は訪れた。孫がWさんの手を取り言った。
「ばあちゃん、来年の2月まで頑張って。俺、親になるんだよ。子どもが生まれるんだ。ばあちゃんのひ孫だよ」
Wさんは笑った。口を大きく開けて笑ったのだ。それは自分の命を受け継ぐ命の誕生を心底喜んでいるかのようだった。生きる力を感じさせる笑顔だった。
でもその光景にいちばん笑っていたのは僕かもしれない。
今、関空にむかう、はるかの車中。
Wさんの写真をみながら、「笑う」と、「泣く」「怒る」の、際❨きわ❩について、思いをめぐらしています。
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