「私はもうよそ者ですから……」
原田誠一さん(55歳・仮名)は力のない笑いを浮かべた。自嘲気味というのがいいかもしれない。
実際に馬毛島(まげじま)に住んでいた人を、鹿児島市内でようやく見つけたのが彼だった。彼は昭和41(1966)年馬毛島で生まれ、昭和55(1980)年4月21日の全島引き上げまでの14年間をそこで過ごした。
馬毛島。種子島の西方沖合12キロに浮かぶ無人島が、いま大きく揺れている。この小さな無人島が在日米軍再編に伴う米軍空母艦載機離着陸訓練(FCLP)の移転候補地になっていることが明らかになり、賛否様々な声が地元はもとより各地、各所から上がった。とりわけ馬毛島のある西之表市では市民を2分した論争が続いている。その後計画は馬毛島に航空自衛隊の基地を整備するという中身に変わった。米軍の訓練施設ではなくて、自衛隊の基地をつくると。自衛隊の基地でFCLPを実施するという計画なのだ。国は地元の理解を得ることが前提だとは言うが、馬毛島を買収した上で、論争を横目に着々と整備工事を進めているようだ。
もちろん中種子町、南種子町、屋久島からも様々な声が上がる。「地元」としての声だが、ここしばらくは航空自衛隊誘致による地元経済の活性化を望む、あるいは基地受け入れに伴う国からの交付金を地元経済の立て直しのために活用しようという声がやや強まっているように感じる。
だが、故郷に降って沸いたような話を、そこをいちばんよく知る、そこで暮らした人たちがどのように受けとめているのか、今後の取材のためにもそれを知りたいと思った。
まず、馬毛島の正確な位置・姿をデータで示しておく。
北緯 30°45′ 東経 130°51′
周囲 16.53km 南北 4.5km 東西 3.03km
面積 820ha 標高71.1m
無人島では、北海道松前郡松前町の渡島大島(おしまおおしま)に次いで2番目に面積が大きい。
「高い山こそありませんでしたが、自然の豊かなところでね。ありきたりな言い方ですが、いいところでしたよ」
原田さんは思い出の中のおもちゃ箱をひっくり返しているかのように、いたずらっぽく笑った。彼の家は、彼の祖父の代に馬毛島に入植した。昭和26(1946)年のことだ。サツマイモとコメを作る農家だった。一緒に入植したのは40世帯ほどだったという。その後世帯数は増えていく。最盛期は昭和30年代半ばで、記録によると世帯数は113、人口は528人となっている。
「トビウオ漁の漁業基地だったことはよく知られているけど、農業や畜産業も盛んだったんですよ。製糖工場もありましたもんね」
これは彼の記憶の中での話だ。彼が生まれた時、製糖工場はすでに閉鎖されていた。
世帯数、人口がピークを迎えるちょうど同じ頃、害虫(アリモドキゾウムシ)が発生しサツマイモの作付けが制限される。農家はサツマイモをあきらめサトウキビを導入するとともに製糖工場を誘致したのだ。しかしそれも彼が生まれる前年、昭和40(1965)年閉鎖される。その後出稼ぎ、離島が相次ぎ世帯数、人口とも減少の一途をたどる。
原田さんの思い出にもどろう。
「後で、そうですね、馬毛島を離れて、種子島を離れて、大人になってからの話ですが、小さな島なのに自然の宝庫だったということを知りました。そういえば、そうだったなあって。海岸からはイルカやマッコウクジラの群れが泳いでいるのが見えたし、ウミガメが卵を産みに上がってきたり。その海岸線には珊瑚の群落がありました。それを大人になってから学術的な知識で確認するんですよね」
彼は照れくさそうに笑いながら、僕に教えるように話してくれた。
馬毛島は黒潮のただ中にあり、南方系、北方系の植物が狭い範囲に分布・共生している。その種類は約430種類。中にはホソバアリノトウグサという固有種もある。渡り鳥が羽を休めるポイントとなり、見かける野鳥の種類も多い。彼の記憶の中には家の裏をゆっくり歩くキジの姿があった。キジとマゲジカは島中至るところを我が物顔で歩いていたそうだ。
「国立公園の候補にもなったそうですよ」
珊瑚群落の美しさ、海藻類、岩礁生物群の豊富さがその理由だったという。
「オカヤドカリっていうヤドカリが天然記念物に指定されていたそうですが、ヤドカリってどこにでもいたので、どれがそれだったのかはわかりません。マゲジカの糞にいっぱい虫がたかっているのをよく見かけましたが、クロツヤマグソコガネていうんだと後で知りましたが、そんな虫もいたなあ……。島の南のほうで『椎ノ木遺跡』っていう弥生時代のものだっていう人骨の埋葬跡が、石斧や土器といっしょに発見されたりね。子どもにしてみれば、自然の水族館、博物館のただ中で暮らしていたみたいなもんです。国立公園の話もね、結局はトビウオ漁が制限されるんじゃないかって声が出て前へ進まなかったって聞いています。もしそうなっていればね……」
そこまで言うと彼は言葉を飲み込んだ。
そんな原田少年の意識のおよばないところで、故郷馬毛島の苦悩の歴史がはじまる。背景・詳細についてはいまは触れない。事実だけを列記する。
減り続けた世帯数、人口は、45年(’70)に78世帯284人、50年(’75)58世帯180人となった。その間、旧平和相互銀行が設立した馬毛島開発株式会社によるレジャー施設開発計画が進められるが頓挫する。53年(’78)馬毛島に石油備蓄基地を誘致する構想が発表され、55年(’80)2月1日石油国家備蓄基地の立地可能性調査地に決まる。呼応して4月1日、全島民が馬毛島を離れ無人島となった。ところが石油備蓄基地は志布志湾に建設され、馬毛島は結果的に取り残されることになる。
しかし馬毛島は忘れられたわけではなかった。この小さな無人島の名がことある毎にニュースに取り上げられた。
「自分の住んでいた小さな島がね、ことある毎に世間の耳目を集めるんですよ。なんだか妙な気分でしたね。元の平和相互銀行の不正経理事件でしょ。防衛庁にレーダー施設を建てるための用地を売却するのに、闇資金を政界にばらまいたとかなんとかって話ですよね。それからはもう、放射性廃棄物処理場だとか、使用済み核燃料中間貯蔵施設だとか……。そうそう、南種子のロケットセンターとセットになった日本版スペースシャトルの着陸場っていうのもありましたね。で、今回の自衛隊施設とFCLPでしょ。きっと種子島の人はまたかって感じでしょうね」(原田さん)
そこで、彼にたずねた。
「原田さんご自身は、FCLPとか航空自衛隊の基地誘致にどのような感想をお持ちですか」
「私はもうよそ者ですから……」
「それは、間近で暮らしている人の意志で決めればいいということですか」
「ええ、私は遠くからながめているだけです」
高齢ではあるが、両親はいまも西之表市の馬毛島がよく見える集落で暮らしているという。
「島の上空を戦闘機が飛ぶかもしれないし、そんな光景を両親が見たら悲しむかもしれませんが……」
彼はそこから言葉を継ごうとしなかった。
彼が「よそ者」だとしたら、この計画を東京で推し進める政治家、官僚、そして土地所有者は、もっと遠くでこの島をながめているのではないだろうか。その視線は、彼の両親の思い、かつてその島で暮らした人々の思い、近くで暮らす人々の思い、そして島を遠く離れた者の思いなどは、決して見えていないに違いない。
「じゃあ聞き方を変えます。もしも国立公園になっていればどうなったと思いますか?」
「それはまた、違った風景になっていたでしょうね」
話はそこで終わった。
原田さんの話を思い浮かべながら遠く馬毛島をながめた。
そこに動くものは、何も見えなかった。そこから響いてくるものは、何も聞こえなかった。
ただ何かが蠢いている。そんな気がした。
「もう、よそ者ですから・・・」 離島の多い鹿児島県では あらゆる地域で開拓者がおられ
高度経済成長に翻弄され 島を離れたり 全員離島(悪石島)されたり 夢を追いかけて入植してもこんなはずではなかった ブラジル ベネズエラ アルゼンチンへの鹿児島からの移民でも私の限界集落から夢を追いかけて行かれた家族があります
ほとんどの人が成功なく現地で終焉してます 2世3世は先祖を頼って鹿児島で仕事を探してこられるかたもおられます
川内地区では原電の寄田地区に甑島の入植者地域があります 島の生活からもう一歩上の生活をするために入植されたところは 今の現状です 鹿児島県のいたるとこに 離島からの入植地域が点在します 過疎振興を謳い県民を呪縛し 失敗したら経済変動に転嫁し 自分を正当化してきたのが鹿児島県行政であり国家事業だと思います 保守王国県でありますが 山中貞則氏も落選したこともありました 二階堂氏は総理大臣になれませんでした 全国から見れば
過疎地の代議士しか見れなかったでしょう 馬毛島も千代田区から見ればそんなものでしょう
多くは語らない元住民の言葉が身に沁みます