夜空の向こうで

「思い出さえあったらいつでも会える」これはあなたの口癖でした。
両親、兄弟、多くの知人友人を見送り90歳を過ぎ、そうして92歳で最愛の夫を見送りました。95歳で可愛くて仕方のなかった孫、曽孫と別れ、住み慣れた京都から鹿児島に移り住みました。さみしくないかと問うと、
「出会うことがあったら必ず別れはある。けど、思い出さえあったらいつでも会える」と笑って答えました。「心の中にみんな生きてる。みんな笑うてる。そやし大丈夫や」と。
さみしいとこぼすこともなく、あなたは日々を大切に前向きに生きていました。でも、ほんとうはお父ちゃんが恋しくてどうしようもなかった。京都が恋しくてたまらなかった。さみしかったのですね。ごめんね、気づいてあげられなくて。

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がんかて笑うて死ねるんや

末期の肺がんだった父清水良一はモルヒネを拒否した。最後までベッドの周りにいる家族、近しい人の顔を見ながら死にたいと。
「眠らされたまま、知らんうちに死ぬのは嫌や。がんかて笑うて死ねるんや」
と。かなり苦しかったと思うが、父はほぼ言葉通りに笑って逝った。亡くなる直前、確かに父は笑っていた。

桜のような人

誰からも愛される人だった。いろんな人に出会うために、いろんなところに出かけることを厭わなかった。
息子さんも時間を惜しまず、労を惜しまず、おかあさんをあちこち連れて回った。ほんとうにおかあさんが喜びそうなありとあらゆる場所に。そうしてその喜びを素直にあらわす人だったという。笑顔と感謝を忘れない人と言えばいいだろうか。
息子さんの話だ。とある神社に行った時のことだ。参道の石段脇にミツバツツジがきれいに咲いていた。おかあさんは赤い手摺を握って、「一人で上がれますから」と1段ずつゆっくりゆっくりと上がっていく。そうして途中で足を止め休憩する。顔を上げるとちょうどそこにミツバツツジが咲いてた。
「オフクロの大好きな色やったんやね」息子さんは懐かしそうにふり返った。

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笑顔のつくり方

母が入っていたホームの入居者から連絡をもらった。正確に言うと入居者の娘さんからだ。
「母が遺影にする写真を撮って欲しいと言ってるのですが……」と。
母が生前とても親しくしていたと聞いて、撮らせてもらうことにした。遺影用だなんて言わずに、今の写真を撮りましょうと。ホームと言っても特別養護老人ホームではなく、サービス付き高齢者専用住宅のこと。マンション住まいと何ら変わりない。必要なケアと24時間見守りのあるホームでの暮らしは快適で安心だ。予て母もそう言っていた。大勢で暮らすひとり暮らしのようなものだと。
部屋を訪ねるとおかあさんは緊張した面持ちで待っていてくれた。娘さんもすでに着いていた。
緊張をほぐすのにしばらく話をした。大勢で出かけた時のスナップはあるけれど、カメラに向き合って写真を撮ったことはないという。緊張するのも無理はないなと思った。話しながらゆっくりカメラを向けた。

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やがて悲しき

彼女は種子島西之表市の国上でひとり暮らしをしている。集落の奉納踊りでは花形をつとめるほどの踊りの名手で、ゲートボールの名手。集落にはなくてはならない存在だ。
だが彼女はさみしいのだ。大勢いた子どもたちは独立し家を出ていき、夫には先立たれた。
週に2回デイサービスに出かける。時々診察のために病院に行く。時々離れて住む娘が顔を見にくる。それ以外は買い物に出かけることもない。誰かが訪ねてくるわけではない。楽しみにしていた奉納踊りもコロナ禍と後継者難で取りやめになった。再開の見込みはない。
「ゲートボール仲間もみんな年寄りばっかりやもんで……」
彼女はさみしいのだ。ひとり暮らしの家の中で黙々と時間を過ごす。いつの間にか笑顔は消えた。テレビでお笑い番組を見ても笑うことはできない。それでもデイサービスに出かけるとちょっとは楽しい気分になる、家に戻るとまた黙々と時間を過ごす。
「年寄りはみんなこんなふうに暮らしちょるのかと思うと……」
彼女はさみしいのだ。

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おぶっておぶられて

「そらあ、自分の親やさかいなあ」息子さんは笑って言った。
彼は90歳を過ぎた母親を姉弟で見守る。自営業を営む彼と彼の妻、さらに姉だけでは不可能だ。デイサービスやその他の介護サービスを使い、さらには他の家族の力も借りる。使えるものはすべて使う。
そんな話をしていると、デイサービスの送迎車がおかあさんを送ってきた。
車を降りたおかあさんに職員が言った。
「また明後日ね!」
そう言って彼が手を差し出すとおかあさんは応えるように小指を立てて手を差し出した。ゆびきりの仕草だ。そうして笑顔になった。それを見守る息子さんも笑顔になる。
送迎車を見送ってふたりは長い外階段の下に立った。
「おんぶしよか? 歩くか?」と息子さん。
「歩く」とおかあさん。
息子さんがおかあさんの身体を横から抱きかかえるようにして、おかあさんは厳しい表情で手すりを両手でぎゅっと握り、急な階段をゆっくり上っていく。2階の玄関に辿り着いたが、おかあさんの居室は3階だ。そこからは息子さんがおぶって階段を上がる。

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ほら、笑った

長い人生を一緒に歩いてきた老夫婦の話だ。妻86歳、夫84歳。夫は30歳を過ぎた頃脱サラして陶芸家への道を歩きはじめた。周囲はいい歳をしてと眉を顰めた。だが妻は、安定した生活を放棄し夢を追い求めた夫を全力で支えた。誰に師事することもなく、工芸研究所に通い窯業の基礎を学び、その後は独学で陶芸の道を歩んだ。やがて夫は窯を開き、さまざまな賞を獲て陶芸の世界で確固たる位置を占めるまでになった。
かつて夫婦は若かった頃をふり返りこう言った。
「夢はありましたけどね、お金はありませんでした」と妻。
「ほんとうに家内には苦労させました」と夫。
「だから」と夫は今こう話す。「家内へのお返しですよ。彼女の世話はぼくが全部します」と。

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笑顔を奪われて

笑いたいのに笑えない人もいた。ALS患者のマイクさんだ。
ALSはようやく解明が進んできた難病のひとつ。発症すると次第に全身の筋肉が衰え死に至る恐ろしい病気だ。確立された治療法はない。ALSだと診断されると、平均的な話だがおよそ2年から5年で死に至る。気管切開をして人工呼吸器をつけ呼吸管理をして20年以上生き続けたという例もある。しかしベッドの上に寝たきりで、微かに身体を動かすこともできず、コミュニケーションすることもできない。患者はただただ自分の中に閉じ込められるのだ。
マイクさんはALSと診断されてから、この「閉じ込め症候群」と呼ばれる状態を恐れ、その前に自ら命を断つ「安楽自死」を求めた。そうなれば恐ろしいほどの孤独に見舞われ、その上家族にとんでもない苦労を強いることになるからだ。だが彼の望みはこの国の法制度では決して許されるものではなかった。

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心底の笑い 

ぼくの母が入居していたホームで暮らしていた隣人の話だ。
彼女の家族は主治医から生きられてもあと2カ月だと告げられた。娘さんから写真を撮って欲しいと依頼があった。その日にあわせて孫たちも呼ぶからと。母と彼女は、人生のベテラン同士の友人だった。去年の正月は一緒にお祝いもした。その時は母も彼女も笑顔で鍋をつついていた。その人が寝たきりで笑うこともできないかもしれないと聞かされたが、ぼくはどうしても笑顔が撮りたいと思った。
ホームに着くと彼女はベッドに横になっていたが、その日は調子がいいということで車椅子に乗り替えた。話しかけるとちゃんと反応がある。孫たちがかわるがわる話しかけたり、からだを撫でたりしていた。話しかける者をしっかりした視線で見つめる。彼女はきっと笑える。きっと笑顔を見せてくれる。ぼくはそう思った。

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お母さん大好きだよ

彼女は87歳。10年前にアルツハイマー型認知症だと診断された。鹿児島市内の自宅に暮らしている。若い頃はアスリートとして活躍し、70歳を過ぎても仕事やボランティアに汗を流していた。
認知症だと診断された時、家族はにわかに信じられなかった。あんなに快活で元気だった人が……。そんな思いだった。だが病魔は確実に彼女を蝕んでいった。暮らしのすべての場面で誰かの手を借りなければならなくなった。さらに何度か脳梗塞の発作を起こし、今では車椅子が手放せなくなってしまった。
しかし、家族を含め周囲の献身的な介助・介護もあって、彼女の発症後の人生は決して不幸ではない。問題は、
「母の気力ですよね」
と娘さんは言う。
認知症は、物忘れが激しくなり、理解し判断することが難しくなり、身の回りのことができなくなる。さらに憂うつでふさぎこみ、何をするのも億劫になるという。あらゆることに対する気力が失われるというのだ。つくづく認知症は恐ろしい病気だと思った。

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