ほら、笑った

長い人生を一緒に歩いてきた老夫婦の話だ。妻86歳、夫84歳。夫は30歳を過ぎた頃脱サラして陶芸家への道を歩きはじめた。周囲はいい歳をしてと眉を顰めた。だが妻は、安定した生活を放棄し夢を追い求めた夫を全力で支えた。誰に師事することもなく、工芸研究所に通い窯業の基礎を学び、その後は独学で陶芸の道を歩んだ。やがて夫は窯を開き、さまざまな賞を獲て陶芸の世界で確固たる位置を占めるまでになった。
かつて夫婦は若かった頃をふり返りこう言った。
「夢はありましたけどね、お金はありませんでした」と妻。
「ほんとうに家内には苦労させました」と夫。
「だから」と夫は今こう話す。「家内へのお返しですよ。彼女の世話はぼくが全部します」と。

2019年年末、妻は体調を崩した。突然歩けなくなったのだ。脳梗塞だった。夫は献身的に介護した。だがしばらくすると認知症の症状があらわれ、あっという間に進行したのだ。暮らしのすべての場面で介助が必要になった。夫は心に決めた。妻の介助は人任せにしないと。
夫はといえば、まだまだ創作活動も続けたいし、彼自身も腎臓を患い週に3日の通院、透析が欠かせない。自らの仕事と通院のために週3日、妻にはデイサービスを利用してもらうことにした。
「できればずっとそばにおりたいですが、無理ですな」と夫は苦笑いする。
だが妻が家にいる間、夫はすべての介助・介護を自分の手でしている。いわゆる老老介護だ。買い物や洗濯、食事の用意などの家事はもちろん、妻の食事介助、着替え、下の世話、ベッドと車椅子の移乗などすべてだ。ヘルパーを使えばいいのにと言われることもある。夫の負担を気遣ってのことだ。
「大丈夫ですよ、これくらい」夫は笑って言った。「妻にかけた苦労を思えばなんてことない。それに人の手を借りるのは家内も嫌がるだろうし。ほんとうにしんどくなったら助けを求めますよ」
悩みや困りごとはないかとたずねた。
「強いて言えば食事を家内の好みに合わせて用意しますから、肉類とか揚げ物がほとんどなくてね。時々トンカツを無性に食べたくなったりします。そんな時は息抜きも兼ねて、家内がデイの日に出かけます」と夫は笑った。それに合わせるかのように妻も笑顔になった。
「ほら、笑った」
夫は一際大きな声で笑った。