僕は幸せだったんだ!

多分小学校4年生の正月前だったと思う。父がミニチュアカメラを買ってくれた。小さなフィルムを入れる機械式カメラだったが、手のひらにすっぽり入るくらいの大きさのかわいいカメラだった。でも僕にとっては欲しくて欲しくてたまらないカメラだった。父は大の写真好き、いやカメラ好きで、ずいぶんたくさんカメラを持っていた。僕は父に内緒で、そのカメラを持ち出しおもちゃにしては叱られていた。そのうちに自分のカメラが欲しいと思うようになっていたのだ。だから今にして思えばおもちゃのようなものだけど、僕にとっては待望のカメラだった。

年が明けて正月二日。家族で奈良に出かけた。僕はそのカメラで「いっぱい写真を取るんだ」と張り切って出かけたことを覚えている。奈良公園の正月の風景を撮り歩く父を、小さなカメラを振り回しながら必死になって追いかけた。カメラの扱いなどまったくわからない。ただシャッターを切って、フィルムを巻き上げて、シャッターを切っての繰り返しだった。焼き上がったプリントを見て父は笑うばかりだったが、その意味はわかるはずもなかった。なんとなくバカにされているようで面白くなかった。

その時撮った写真を母が残してくれていた。僕が生まれてはじめて撮った写真だ。それを眺めながら、60年前のあの父の笑いはなんだったんだろうと母にたずねるでもなくつぶやいた。
「うれしかったんやがな、お父ちゃんは。かいらしい(かわいらしい)写真撮りよる言うて喜んだはった」
母もうれしそうに笑っていた。父の笑顔を思い出したに違いない。幸せだった家族の風景だ。

その写真たちを引っ張り出して眺めている。この中の何点かを京都の写真展で展示しようと思う。僕の原点みたいなものだから。ピントはぼけぼけ、構図もむちゃくちゃ、ひどいな。時間が経ち、色褪せてしまっているけど、その頃の自分を、僕の原点となった家族の風景を象徴するには、とてもいい材料だ。
でも、この写真たちより、僕の中の思い出がぼけぼけになり色褪せてしまっていることに気づいた。忘れてしまっていたけど、僕は幸せだったんだ。

“僕は幸せだったんだ!” への2件の返信

  1. 今、このタイミングなので、清水さんの、家族感・然りげ無い日常の中にひそむ、幸せ感に、深い深い、共感を、感じます。写真展楽しみにしています。

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