NHKBSで「コズミック フロント」という番組を見た。「カーボンプラネット 炭素と地球 知られざる物語」と題し、地球は巨大な炭素循環によって成り立っていることが分かってきたという内容だった。
地球の生命誕生の起源を探ると、炭素という原子にたどり着くそうだ。極低温の液体、地球の場合は水、の中で炭素が複雑な化学反応を起こし、生命が生まれたと。
そうして何10億年もの時間と進化を重ね、今の「僕」になったのだ。
炭素は地球上で果てしない時間を循環してきた。今もそうだ。つまり「僕」もその循環の中にある。なるほど「僕」たちは死んで終わりではない。プランクトンや恐竜のように化石燃料になるのを待つことなく焼かれ、二酸化炭素となり放出されて大気を漂い、植物に吸収されて、光合成されて、酸素に生まれ変わり、生き物に吸収され …… 、という具合に果てしない循環を生き続けるのだ。
ある日、母清水千鶴は「人が死ぬということは、健全なる魂に戻って、地球という小さな星からぽとりと大きな宇宙に落ちるということや」と言った。「人は死んだら宇宙に還る」と。アインシュタインの「人間とは、私たちが宇宙と呼ぶ全体の一部であり、時間と空間に限定された一部である」という言葉と重なりずいぶん驚いたことがある。
その時母にたずねた。「宇(そら)を見上げたら、親父が見えるということやね」
と。すると母は「見えるわけあらへんがな」笑った。
「ひとりの命は大きな命の一部を間借りしてるだけ。宇宙ていうのは、その大きな命の本体やな。間借りは終わっても、うちは死んでも、命はずっと続くということや」
「そうか。俺らは宇宙そのものなんやな」
「みんなおんなじひとつの命を生きてる。間借りの期間が違うだけやな」
テレビを見ながら、母との会話を思い出していた。
そういえばこんなことも言っていた。
「この間借りがややこしいんやな。贅沢になったり、わがままになったり、自分がすべてになったり。いつかは人生という間借りも終わる時がくるのにな」
「僕」たちは宇宙に還る時、何も持って帰れない。意識さえ持てないのだ。
「そやけど」と母は言う。「後の人に思い出を遺すことはできる。宙を見上げてもお父ちゃんは見えへんけど、思い出さえあったらいつでも会える」と。
母は父との思い出を、父からのプレゼントだとずっと大切にしている。
その一部は僕も受け継いでいる。
物理的な命は炭素の循環として果てしなく生き続けるが、父の命も母の命も僕の命も、思い出として誰かに受け継がれる限り生き続けるのだ。
〈揺れて歩くニュース vol.56〉より