原発へ 県道43号を歩く

薩摩川内市都心

原発へ。
ここから歩きはじめた……。

宮里町川畑

雨のせいだろうか。道を歩く人はいない。
歩きはじめて1時間。ようやく自転車のおばさんとすれ違った。
歩く人がいないというより、結局5時間歩いて路上で見かけたのは工事関係の人ばかりだった。

宮里町 志奈尾神社

少し山を上がると古い、小さな神社があった。偶然出くわした女性は、備え付けのノートに何やら熱心に書き込んでいた。社殿に手を合わせ、両の狛犬を撫でる。よくお詣りするのかとたずねたら、毎月朔日は欠かさないという。悪いとは思いながら彼女が書き込んでいたページを開いてみた。そこには遠くで暮らす娘たちの幸せを祈る言葉があった。
「母親というのはありがたいものだな……」
ぼくは、そうつぶやきながら自分の親不孝を思っていた。

宮里町 城

冬野。孤立する木。
寂寥感よりも気高さを感じた。
孤立することも悪くないな。

宮里町 宇都

「原発反対」を横目に、道路拡張の工事が進む。
薩摩川内市中心部と原発を結ぶ県道43号沿線宮里町内は、あちこちで工事が進められている。ある人が教えてくれた。
「宮里町は、町内を上げてほぼ原発推進でまとまっているから。隣の高江町に入ってごらん。道幅は急に狭くなる。こちらはほぼ反対でまとまっているんだ」
彼の言わんとしていることが事実なら、原発というものは地域と人々を分断する道具になっているということだ。

高江町 城之下

彼の言ったとおり、高江町に入ると道幅は狭くなった。この辺りを最後に歩道はなくなる。ひっきりなしに通り過ぎるダンプカー、トラックにおびえながら歩く。まるで邪魔者扱いだな。

高江町 江之口眼鏡橋

八間川は長崎新田を洪水から守るために開削された人工河川だ。江戸時代、肥後の名工といわれた岩永三五郎による仕事だそうだ。その象徴がこの眼鏡橋。
「川内にはこれといった観光資源がない」という人は多いが、八間川流域は人工の風景と自然の風景が一体となってなかなかいい感じだった。立派な観光資源だ。
自然と向き合い、格闘し、共存しようとした人間の姿がそのまま形となっている。人間の営みのために環境破壊を顧みない「今」を痛烈に批判しているようにも思える。大勢の人に見てほしいなと思った。

高江町 峰下熊野神社

歩きはじめて3時間。全行程の3分の2は歩いただろうか。
絶望的な曇り空。殴りつけるような強風。降ったり止んだりする雨。傘は役に立たない。峰下の集落を歩き回る。知人の家があるはずなのだが、うまく見つけることができなかった。神社で一息ついていると一瞬だが雲が切れ陽がさした。曇り空の下では光を失って気がつかなかったが、銀杏の絨毯がひろがっていた。

高江町 長崎

川内川は時化ていた。
海と川が怒っている。
風が怒りを煽っている。

高江町 越路

「長崎から先は何もないよ」
誰もがそう言った。
久しぶりに人の気配のする看板に出会う。
トイレを借りに走った。海が近くなったせいだろう。風が強くなりまるで嵐のようだ。何かがどこかで吠えている。

久見崎町 倉浦

高江町と久見崎町の境を越えた。
県道を外れて倉浦の集落に足を踏み入れた。長崎あたりから休耕田が目に付くようになる。このあたりのことをよく知る人に話を聞いた。このあたりの農家が耕作をやめたのは偏に後継者がいないからだということだった。だが、とぼくは思った。この風景は集落をあげて耕作を放棄したように見えないか。何軒かあれば、後継者のいる農家も、いない農家もあるのではないだろうか。右へ倣えで後継者がいないことを理由にしているのでは、と。
山の向こうに原発の風景が見えたような気がした。

久見崎町 倉浦

用水路にまでススキが生い茂っていた……。
この風景を見て、いちばんさみしい思いをしているのはこの集落の人たちだろうなと思った。通りがかりの人に話を聞きたいと思ったが、しばらく待っても誰も通らなかった。
晴れた日に来ればよかった。
風景を眺めながら少し後悔した。

久見崎町 久見崎入り口

いよいよ原発立地の町久見崎町の中心部に入る。
ここにはモニタリングポスト河口大橋局が設置されている。大気中の放射線量を常時測定しているのだそうだ。
この時表示されていたのは“80.8nGy/h”。nGy(ナノグレイ)という単位は原発では一般的に使われているそうだが、メディアや様々な場面で見聞きするのはSv(シーベルト)じゃないかと思う。ぼくだけかも知れないが、この“80.8nGy/h”という放射線量がSvに換算するとどれくらいになるのか即座にわからなかった。というか、ピンとこなかった。これはSvに換算すると1時間あたり0.6464μSv、1日あたり3.8784μSv、1年あたり566.244μSvになるそうだ。
安全だと言われている数値だそうだが、ここに住む人はずっと浴び続けているわけだ。「不気味」としか言いようがないと思った。しかも、疑うようで申し訳ないが、表示されている数値の真偽は確かめようがない。
小さい建物だが、とてつもなく「不気味」だ。

五里霧中

久見崎町 春日橋

久見崎の集落に入る手前。小さな川に小さな橋が架かっている。この小さな川は農業のための用水路として開削された川だと聞いた。少し遡上すると今は休耕地になってしまっているが、川内川の川縁から背後の山まで広がる田園地帯に出る。
第2久見崎川。小さな用水路だが、田園地帯を毛細血管のように走り土地を潤していたそうだ。
川内川に注ぐ河口付近は雑木雑草に覆われていた。水面がなんとなくさみしそうに光っていた。

久見崎町 川内河口大橋

全長631m。完成は昭和56年。久見崎町・寄田町と対岸の港町さらには国道3号へ続く。原発と対岸の火力発電所を繋ぐエネルギーロードと言ってもいいかもしれない。
橋上から川内市街地方向を見る。

久見崎町 川内河口大橋

橋の中央から久見崎町集落を眺める。ひと際大きな建物は集落の中心にある滄浪小学校だが、今は廃校となっている。この小学校には74年前のひとつの悲劇が語り継がれている。1945年7月30日、終戦の半月前に空襲によって勤労奉仕で学校に来ていた児童7人が犠牲となった。その事実も廃校とともに忘れ去られようとしているようだ。

久見崎町 久見崎入り口

バス停のそばにしらすの無人販売所があった。入ってみると自動販売機が置かれていた。
しらす漁はちょうど最盛期に入っているはずだ。数人の漁師に話を聞いた。が、みな一様に何も語ろうとしない。よそ者に余計なことは話さない。そんな雰囲気がある。
ある漁師が2人きりになった時ボソッと言った。
「都会の人は原発がそばにあるというだけで、魚も米も全部汚染されてると思っとるからなあ。もしそうならワシらとうに生きとりゃあせんで」
そう言ったきり彼は背中を向けた。

久見崎町 久見崎入り口

耕作が放棄された田畑の中に立つ看板。
共存できない原発と共存を強いられる立地地の叫びだ。
なぜ、大都市のそばではなく、過疎の町になのだろう。活性化の切り札になっているとは思えない。逆に過疎を押し進めているのではないかと思う。
この看板は問うている。原発はほかの誰かの問題ではなく、あなた自身の問題なのだ。そのことがわかっているか、と。

久見崎町 滄浪小学校

河口大橋の上から見えていた滄浪小学校を訪ねた。平成23年度限りで閉校し、廃校となったままだ。耕作放棄地と同様、これもまた過疎の象徴だ。
久見崎の町は1945年7月30日の朝、米軍の空襲を受けた。薩摩川内が何本かの国道が交差する交通の要衝であったことが理由だとされている。この空襲で地元住民約30人が機銃掃射の犠牲になった。その中にこの小学校に通う児童7人も含まれていた。終戦まであと17日だった。戦争というものの容赦なさ、無慈悲、残虐さをあらためて思う。
もし同じような戦争がくり返されたら。そう考えると途轍もない恐怖を感じる。交通の要衝としてではなく、原発のある町として、この町は攻撃にさらされているはずだ。
今の政権の動きを見ていると、それはとてもリアリティのある話だ。

久見崎町 久見崎入口

集落を出てふたたび県道に戻った。
県道の向こう側に広大な茅場がひろがっていた。そう、その時までぼくは県道沿いに点在していた、ススキが茫々と生い茂る野原を茅場だと思っていたのだ。しかし沿道に茅葺きの屋根などただの1つも見なかった。そんな小さな疑問を抱えながらも、茅場だと思い込んでいたのだ。
しかしそれは大きな勘違いだった。散歩中の夫婦が教えてくれた。それは茅場ではなく耕作放棄された農地だった。
「休耕田ということですか?」
「いやあ、耕作放棄だよ。つくるのをやめたンだよ」
何かしら得体の知れないものがこの町をじわじわと浸食しているように感じた。

久見崎町 久見崎入口 諏訪神社

耕作放棄された農地に足を踏み入れた。ぼくの背丈以上もあるススキが生い茂り、見えるのは農道の前後だけだ。突然視界が開けると、そこには小さな神社があった。額束(がくづか)には諏訪神社とあった。
お諏訪さんか……。
建御名方神(タケミナカタノミコト)を祀る神社だ。鹿児島ではその多くが南方神社とされている。御名方(南方)は水潟(みなかた)を意味し、いわば水神として農耕地を水害から守る存在として祀られてきたのだろう。
だが、ここは耕作放棄地のただ中だ。鳥居も社殿も、なんとなくさみしそうに見えた。

久見崎町 諏訪神社

神社の前を流れる小さな川は第二久見崎川と名付けられていた。灌漑のために開削・整備された農業用水だ。下ると川内川に注ぐ。久見崎集落に入る手前で小さな橋を渡ってきた。雑草雑木に覆われた小さな川がその下を流れていた。それがこの川の河口だ。
第二久見崎川は諏訪神社の前で大きくカーブする。そしてその後はまっすぐ一直線に山に向かう。まっすぐな道がどこまでも続くように。
農業用水としての役割は、すでに終えていた。

久見崎町 日和山

久見崎の集落を歩きまわった。
時間帯のせいだろうか、誰も歩いていない。誰にも会わない。
川内川の川縁に出た。古墳のようにこんもり小高い場所があった。
「日和山」というらしい。案内看板を見ると、すぐそばにあった薩摩藩の軍港から軍船が出港する際や、漁に出るときの天候の具合いを観測していた場所だとあった。
軍港といっても幕末明治維新や太平洋戦争の時代ではない。慶長2年(1597)、慶長の役に出兵した島津軍の軍港なのだ。島津藩はここから兵士たちを朝鮮半島に送り込んだ。
日和山には小さな広場があり、島津の朝鮮出兵を「記念」する石碑が建てられている。毎年8月16日その前で「想夫恋」という歌にあわせて盆踊りが奉納される。

 御高祖頭巾に腰巻羽織 亡夫も見て賜れ 眉の露
 切って供えた みどりの髪は 今も逢瀬を 待てばこそ
 盆の十四日 踊らぬ人は 目蓮尊者の 掟にそむく

そううたわれるこの歌と踊りは、朝鮮で戦死した帰らぬ夫や子らを、国もとに残った女たちが供養するためにうたい踊ったのはじまりとされている。
いつの時代も戦争は多くの人々のいのちを奪い、多くの人を悲しみに追いやる「くり返してはならない」と為政者は言うが、決してなくならない。今もどこかで誰かが殺し、誰かが死に、誰かが泣いている。

久見崎町 日和山

祈りの風景。
その祈りさえも許されない時代があった。
石の仏は目鼻を削られている。
廃仏毀釈。
それは弾圧以外のなにものでもなかった。
そんな日がふたたび来ないことを祈った。

久見崎町 日和山

そびえ立つ鉄塔…。生け垣の切れ間から川内川対岸が見えた。
九州電力川内発電所と言えば、ほとんどの人が久見崎町の原子力発電所を思い浮かべるだろう。が、九州電力川内発電所は左岸久見崎町の原子力発電所と、右岸港町の火力発電所の2つの発電所からなっている。
川内火力発電所は南九州でただ1つの重・原油専焼の大型火力発電所として昭和49年に1号機が運転を開始した。その後年々増加する電力需要に対し電力を安定してお届けするため、昭和60年9月、毎日の深夜停止及び早朝起動が可能な機能を有する2号機を増設し、九州の主要な電源として順調に運転を続けている、と九州電力は説明する。
この火力発電所、1号機、2号機あわせて100万kW。左岸の原子力発電所は再稼働すれば1、2号機あわせて178万kW。合計278万kWになる。さらに、2019年度運転開始をめざした原発3号機の建設計画があったが、それが3.11以降も放棄されたわけではない。

久見崎町 久見崎

誰もいない家。
久見崎の集落には廃屋が目立つ。空き家ではない。廃屋だ。
空き家なら、いつか、誰かが戻ってくる、あるいは新たな誰かがやってくるという微かな希望がある。しかし、廃屋は、ただ朽ち果てるのを待つ。
人はよく「過疎」という言葉を口にする。その時、具体的に過疎の風景が頭の中に浮かんでいるだろうか。
「静かで、のんびりして、いいところなのに。私ならこんなところに住みたいわ。どうしてみんな出ていくのかしら」
ある女性が久見崎の写真を見ながら言った。
この町を後にした人たちは、何も好き好んで出ていったのではない。苦渋の決断の果てに出ていったのだ。都市にまみれて生きている人たちにはその「苦渋」はわからないだろうな。
それが過疎なのだ。

久見崎町 久見崎

とり残された家。
人はとり残されたくないから移動する。
何から……。
この家の前からしばらく動けなかった。
何から……。
そして思った。ほんとうの幸いとは何だろう、と。

久見崎町 久見崎

静かな漁港のそばの家。
港に通じる道に面して、生け垣を切り出入り口にする。
小さな洗い場があった。釣り上げた魚を持ち帰り、ここで洗い、捌くのだろか。小さな日常が見える。
日本中、どこの漁港に行っても似たような光景がきっと見られるのだろう。
だが、ここは決定的に違っていることがある。
すぐそばの原発が再稼働したことだ。

久見崎町 久見崎

集落の墓地。
きれいに掃除され、花が供えられている。周囲ではコスモスの花が風に揺れていた。久見崎の人々が大切にしている場所であることは、誰が見てもわかる風景だ。久見崎を離れ、戻るべき家を失った人にとってはここが故郷だと言ってもいいだろう。
ふと、3年前南相馬市で見た墓を思い出した。墓石は倒れたまま放置されていた。無惨な光景だと思った。人々は心のなかの故郷をも奪われたのだ。
ひとたび事故を起こすと原発は、心や祈りをも奪ってしまう。
久見崎のこの風景がずっとあり続けることを祈った。

久見崎町 久見崎

墓地のすぐそばにある商店。
集落の入り口、県道沿いにあるコンビニ化した店とこの店と、久見崎には2軒の商店がある。
県道沿いの店には駐車スペースもあり、車で移動する人も立ち寄るようだ。だが集落の中にあるこの店は、ほぼ地元の客だけで成り立っているのだろう。入り口の「花300円」の貼り紙が、素っ気ないけれど集落の人たちとのつながりを思わせる。ここで花を買って、墓に供えるのだろう。
何の変哲もない光景だが、そういう日常なのだ。
そういう日常が大切なのだ。

久見崎町 久見崎

すれ違う人はいなかった。
猫が現れた。近寄ると、ついてこいとでも言うように、ぼくを振り返りながら先を行く。しばらくついていくと、路地に入っていく。なおも進む。どこにつれていく気なンだ? 両側の家に気をつかいながら進む。まるで不審者だ。
雑木をかいくぐり、蜘蛛の巣を払いながらしばらく行くと、もとの県道に出た。いつの間にかぼくは猫を追い越していた。
ニャー!
振り返るとそいつは大きな声を上げた。
「早く出ていけ!」
そう言われているようだった。

久見崎町 久見崎車庫前

このあたりには原発関連だろうかいろんな会社の営業所、出張所、詰所が並ぶ。原発需要に応えるためにタクシーの営業所も肩を並べる。この小さな集落にタクシー会社4社が顔を揃えている。
原発を見にやってくる人たちはほとんどがマイカーだろう。観光で久見崎まで足を運ぶ人は少ないと聞いた。だからおよそ久見崎のタクシーは原発を訪れる九電関係者、技術者、作業員などに、川内駅、もしくは川内市街地の宿泊所から原発の往復に利用されるのだろう。
こういうところから原発再稼働を求める声が上がる。
午後2時、タクシーはすべて出払っていた。
あのカーブを曲がれば、原発はすぐそこだ。

久見崎町 想夫恋碑前

久見崎に1軒だけ食事のできる店があると聞いて、空腹を抱え遅い昼食をと向かった。
「やってないかもしれないよ。でも、やってたら、今の時期しらす丼が食べられるよ」
そんなことを聞いたのだ。
バス停想夫恋碑前から県道を海に向かって逸れる。なんでもその店は川内川河口の海岸縁にあるという。
県道を逸れると、左側は原発敷地を示す頑丈そうなフェンスが続いていた。最上部には有刺鉄線が……。そして一定の距離を保ちカメラが並ぶ。このカメラ、行き交う車両、人を追いかけるように動く。このフェンス沿い、死角はないということだ。不気味だな。日常の風景とは思えない。自衛隊の駐屯地だってここまでのことはない。アメリカ軍基地だって……。
つまり、原発とは、それ以上に「ヤバイ」ということなのだろう。
なんだか食欲が失せたような気がした。

久見崎町 想夫恋碑前

気のせいだろうか、原発が近くなると空気が硬くなるような気がする。なぜだろうと思っていた。それはもちろん、ぼくの中の得体の知れないものに対する恐怖感が第一にあることは間違いない。しかし、原発自体が発する拒絶の空気というものもあるのではないだろうかと思った。
監視カメラもそうだが、県道43号沿道にこういった看板をよく見かけた。当然のことだが原発が近くなればなるほどその数は増える。
そういったものがぼくの中の恐怖感と重なって、空気を硬く感じさせるのだろう。
だがその一方で、電力会社は原発への理解を求める。
理解をというなら、その前にすべての情報を包み隠さず公表すべきじゃないか。人間だって、秘密主義の人とは付き合いにくいじゃないか。
 
久見崎町 砂丘

その店、浜の茶屋は吹きすさぶ北西の風の中に悄然と立っていた。耐えている、そんな感じだ。営業中ののぼりが音を立ててはためいている。だが、人の気配はしない。集落からぽつんと離れた海岸。北を向くと火力発電所、南を向くと原子力発電所。周囲に人家はない。時化た沖をタンカーだろうか、大きな船が波に見え隠れしている。この海の向こうには甑島が横たわっているはずだ。何とも言えない最果て感がある。

久見崎 砂丘・浜の茶屋

先客はいなかった。
テーブルと座敷と、ざっと100席はあるだろう。
「どちらでもお好きな席へ」と通されて、窓際のテーブルに落ち着いた。時化る海と川内川河口が目の前に見える。
お茶を運んでくれたおばさんに「旅行ですか?」とたずねられる。首から2つカメラをぶら下げている。多分「取材ですか」と聞きたかったに違いない。写真を撮りながら川内市街地から県道を歩いてやってきたと言うと、驚いた様子だった。そんな旅行者もいないだろうし、再稼働を控えた原発の取材もないはずだ。驚くのも無理はない。
予定通り、しらす丼を注文した。
「しらす丼ですね。今がいちばんおいしいですよ」
そう言って奥へ戻るおばさんの背中を追いかけながら、ぼくは今日何人目の客だろうと考えた。広々とした店が満員になる様子を思い浮かべた。厨房に男性が1人、そしておばさんとぼく。
うまかったけど、さみしい昼メシだった。

久見崎 砂丘

原発に向かってふたたび県道を歩こうとして思い直した。海側からの原発も見ておきたいと。
浜の茶屋まで引き返し、防波堤を越えて砂浜に出たしばらく歩いた。するとそこには虹色の旗がはためいていた。横断幕も立てられている。
「原発再稼働NO!」
「川内原発動かすな!」
川内原子力発電所再稼働に反対する人たちのテント村だ。脱原発、再稼働反対・阻止を訴えるテント村は経産省前や電力会社の本社前、原発立地地など全国にひろがりを見せているという。
あらためてここが主張のぶつかりあう場所だということを実感する。
特に川内原発が再稼働されれば、現在停止している全国の原発の再稼働の突破口になる。しかも地元市議会、市長、鹿児島県議会、知事が再稼働容認を明らかにした直後だ。
薩摩川内市を覆うある種の緊張感はすべてそこから出ている。
「他所からやってきた活動のプロがやってるんでしょ」
そういう見方をする人もいる。たしかにこのテント村に地元の人は少ない。しかし、地元の人は原発再稼働に対して賛否を明らかにできる状況ではないということを、ここまで歩いてきて実感した。
賛否の表明すら許さない原発という存在。
原発は言論を封じ、地域社会、いやこの国を分断する。
川内原発は原発再稼働の突破口であると同時に、分断の象徴になろうとしている。

県道43号を川内市街地からおよそ16km歩いてきた。その間出会った人は数人だった。
県内の道をずいぶん歩いてきた。が、こんなにさみしい道ははじめてだっだ。

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