とくちゃん@名山堀, 鹿児島市
ずいぶん気になっていた。名山堀の居酒屋とくちゃんのおかあさん、徳田ひろこさんのことだ。コロナ禍の最中僕と同じ病気で手術をし、しばらく元気がなかったと聞いた。僕も人混みを避けるように、街から遠く離れて暮らすようになったので、のぞくことすらできなかった。
はじめて店に飛び込んだのがおよそ30年前だ。そう、鹿児島に移ってはじめて入った酒場が、このとくちゃんだった。移ったばかり鹿児島で、これといって仕事もなくかき集めた小銭をポケットに突っ込み名山堀に出かけたのだった。安い店が多いと聞いた。なんなら1000円もあれば腹一杯飲めると。

その頃のその路地は、そこだけが戦後の昭和の匂いを色濃く残していた。埋め立てられてしまったが、鶴丸城に続く堀があり名山堀の名前が残った。昔は青線があったという界隈だ。表向きは2階建だが路上からは見えないように3階部分が建てられていた。それがそのまま残っている。市役所前の一等地だ。再開発の声も度々上がっている。
はじめて入った時僕は40歳そこそこで、おかあさんは50代半ばだった。「おかあさん」と呼ぶと「おねえさんと言いなさい」と言われたことを記憶している。その夜とくちゃんを目指したわけではなかった。路地の入り口に一番近いところにあったのだ。考えるのも面倒くさかったので一番近い店に飛び込んだということだ。結局それが正解だった。

客がいないととくちゃんはひとり晩酌をする
客は誰もいなかった。
「はじめてだね」
「はじめてです」
「メニューはないんだよ。適当に出していくからね」
そんなやりとりがあり、カウンターにとまった。日本酒はあるかとたずねた。30年前の鹿児島には日本酒が飲める酒場はほとんどなかった。あっても驚くほど高価だった。
「あるよ。剣菱だけど。私の晩酌用」
一升瓶がどんと目の前に置かれた。
「どれだけ飲んでもいいよ」
そう言われたが支払いが気になってためらっていると「大丈夫だよ。高くないよ」と笑顔が返ってきた。
その夜僕は刺身の盛り合わせにはじまって、おでん盛り、スパサラ、卵焼き、さつま芋のかき揚げ、トマト、〆のおにぎりとたらふく食べ、剣菱をほぼ一升空けてしまった。「しまった! 高くないと言うけど、ここまで飲み食いしたら……」と少々不安になっていた。恐る恐る勘定を頼んだ。
「よく食べてよく飲んだねえ。気持ちがいいよ。じゃあ、ちょっと多めにもらって2000円!」
僕は耳を疑った。
「いいんですか? 酒一升飲みましたよ」
「いいのよ! あれは私の晩酌用だから」
「でも……」
「じゃあ高くもらおうか!」
とくちゃんの笑い声は路地中に響いてそうだった。それからの付き合いだ。
焼酎を飲んでれば1500円で済む。ビール、日本酒を飲めば2000円程度。気に入らない客は少々高いそうだ、が、それ以前に店に入れない。

とくちゃんの晩酌はずっとこれ。剣菱
申し訳ないが近所まで行ったついで何年かぶりにのぞいてみた。ようやく顔を見ることができた。元気だった。「歳とったねえ、てっちゃん!」と言われて、「お互いにね」と言いかけてやめた。そんなこと言わなくてもわかってるはずだ。酒はそんなに飲めなかったが久しぶりに話せてうれしかった。
「いつまでも元気で頑張ってね」
「てっちゃんもね!」
名山堀の風景もずいぶん変わったような気がした。でもとくちゃんは何も変わっていなかった。今も多くの常連客や新しい世代に愛され、メディアにも度々紹介されているようだ。その夜も少々年齢層の高い客たちですぐに満席になった。
だが名山堀全体で見れば若い人たちがまちづくりに汗を流しているからだろうか、若い客がずいぶん増えた。あの頃あふれかえっていたヨレヨレのポンコツみたいなオヤジたちはどこに行ったのだろう。路地を吹き抜ける秋風が少しだけさみしかった。

すぐに満席になった

昔から変わらないオリジナルラベルの焼酎

刺身

おでん。これで一人前

いろいろじゃんじゃん出てくる
とくちゃん
〒892-0821 鹿児島県鹿児島市名山町4−8
TEL:099-223-2317
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