WAJIMA BLUE トシユキくんの家

能登半島の西海岸を北上する国道二四九号は志賀町増穂浦を過ぎるとしばらく山の中を走る。道路は至る所で陥没や法面の崖崩れ、亀裂どころではない地割れのような破損個所の工事で片側通行が点在する道だ。ようやく海岸線に戻るとそこはすでに輪島市門前町だ。
波は穏やかだが、異様な風景の海岸線が続く。海岸がコンクリートで固められたように白いのだ。あとで聞いた話だが、それは一月一日の地震で隆起しそれまで海底だったところだ。隆起は北に行くほど激しくなり最大で四メートルを観測したと言う。あの地震がとてつもないエネルギーを持っていたことを物語る。

気持ちがざわざわ騒いでくるのがわかる。ぼくは輪島市門前町道下にある大学の同級生トシユキくんの家を四十五年ぶりに訪ねようとしていた。大学に通っていた頃、夏休みになると必ず遊びに行った。そこでひと夏の大半をぼうっと過ごすのだ。親父さんもおふくろさんも、そしておばあさんも歓迎するでもなく拒絶するでもなく、自然に受け入れてくれた。ぼくはトシユキくんとまるで兄弟のように、魚釣りに行ったり貝を拾いに行ったり、畑仕事を手伝ったり地域の祭りで太鼓をたたかせてもらったり、愉快な夏を過ごしていた。
社会に出てからはトシユキくんとの付き合いは続いたが、門前町の家を訪ねることはなくなった。おばあさんが亡くなり、親父さんが亡くなり、その家は高齢のおふくろさんが一人で暮らす家になった。彼と京都で会った時「お母さんはさみしいだろうね」と言うと「そうやな。心配なもんでぇしょっちゅう帰ってる」と笑っていた。トシユキくんは住まいのある加賀市から門前町を頻繁に行き来していた。
あの日もおふくろさんとふたりで正月を祝うんだと彼は門前町の家にいた。そしてあの地震に遭遇した。直後に通じた電話でトシユキくんはその時の様子を生々しく語った。
「おふくろをおぶって家の外へ飛び出した。うちは大丈夫やったけど、隣の家は瞬く間に崩れ落ちた。東京から冬休みで帰っていた孫娘二人が閉じ込められて……」そこまで言って彼は声を詰まらせた。「……結局二人とも亡くなった」
トシユキくんの家は二〇二三年五月の地震で損傷が激しく新しく建て直したばかりだった。おかげで一月一日の激しい揺れでも崩れ落ちることはなかったが、あちこちダメージは大きくやはり住むには耐えられないなと言った。
「住めても住みたくないよな。あれだけの揺れ、おふくろも俺もふとしたときにフラッシュバックするんや。怖い」
おふくろさんは敦賀に住むトシユキくんのお姉さんの家に移った。九十歳を過ぎてからの引っ越しはきつかったと思う。門前町の家は?と問うと、
「解体することにした。おふくろの思い出も俺の思い出もいっぱい詰まってるけどな、仕方ないな……」
と小さな声で答えた。
公費による解体工事の申請が受理されて、解体を待っているところだとトシユキくんから聞かされていた。その場に行ってみようと思った。解体されて、何もかもなくなってしまう前にもう一度あの風景を見たいと思ったのだ。そこはぼくの思い出の詰まった場所でもあったから。
輪島市門前町道下(ルビ:とうげ)に近づくと道路沿いの風景は極端に変わった。崩れ落ちた家々が半年近く経とうというのに放置されたままだ。電信柱も倒れそうに傾いている。恐ろしい風景だと思った。次の交差点をすぎるとすぐトシユキくんの家のある路地だ。車を降りて路地に入って行きたかったが、できなかった。そこに行っても変わり果てた家があるだけなのだ。思い出を奪い取られたような気がして、しばらくそこを動けなかった。

二度目の被災地だ。六月に訪れたときは、あまりの光景に心折れて早々に現場を離れた。逃げて帰ったようなものだと後悔の日々が続いた。そんなことではいけないと自分をけしかけふたたび訪れることにした。トシユキくんにそのことを話した。何しに行くんだ!興味本位で行くな!と反対されると思ったが、彼は快く案内を引き受けてくれた。「被災地の現実をしっかり見てほしい」と。
ぼくらは車を二台連ねて能登半島の先っぽ目指して走った。羽咋市柳田までは高速を使い、そこからは国道二四九号と海沿いの県道をゆっくり進んだ。トシユキくんが先導してくれる。「輪島に向かうにはまだまだ通れないところもあるし、地元の人間でないとわからんやろうしぃ」と。
ぼくには勘違いがあった。トシユキくんの家は公費解体が決まったものの、まだ何も手がつけられていない状況だった。「順番待ちやな」と彼は表情を曇らせた。「壊れたまま放置してある。うちのお袋はもう住まないと決めたから時間がかかっても解体を待っていればいいけど、そこで暮らしを再建しようという人にとっては辛いやろうな」と。
高速を降りたあたりから、屋根にブルーシートをかけた家が目立ちはじめた。傾いたり、瓦や壁が落ちたりした家も目につくようになった。志賀町に入ると家屋の壊れ方は一層激しくなった。道路もひび割れたり陥没したり、北に向かうにつれて地震の爪痕が大きく激しくなっていく。
彼の故郷輪島市門前町道下に入った。ほとんどの家屋が破壊されていた。目を覆いたくなるような風景がひろがっていた。小さな集落だ。「壊れた家に住んでいた人たちの顔が思い浮かぶ」トシユキくんは言った。「このあたりは今度の地震でいちばん揺れが大きかった。震度7だ。無事だった家はほとんどない」と。
その揺れの中。彼は九十歳になるお母さんをおぶって表に飛び出した。家は倒壊することはなかったが大きく傾いた。傍に建っていた納屋は一階部分がペしゃんこに潰れた。お母さんが野菜を置いたり漬物をつけたりしてよく出入りする建物だった。「お袋が入ってない時でよかった」納屋を見つめながら彼はつぶやいた。隣の家は激しく倒壊していた。
「危険」と貼り紙がされたトシユキくんの家に入った。どの部屋も畳や床の上にいろんなものが散乱していた。今大きな地震がきたらぼくらは押し潰されるんだろうな。そんな恐怖がちらついた。同行者が壁を指差した。カレンダーが掛けられている。それは一月のままだった。新しいカレンダーに掛け替えて、その直後から時間は止まっているのだ。
外へ出て気づいた。ここにたどり着くまで散々見てきたブルーシートだが、ここではまったくと言っていいほど見られなかった。トシユキくんにそのことをたずねた。
「屋根にブルーシートを掛けた家は、修理を待ってる家や。修理までに雨で無茶苦茶にならんようにな。けどこのあたりの家は解体を待つばかりやから、雨よけも必要ないんや」
屋根のブルーシートを眺めながら、みんな大変だなと思っていた。だけど、ブルーシートはまだまだ望みがある家の印だったんだ。そういう目で改めて道下のまちを見た。ブルーシートを掛けた屋根は見当たらなかった。
ぼくらはさらに輪島を目指すことにした。

トシユキくんの実家のある門前町道下から輪島市の市街地までは、普通なら国道二四九号を北上すれば小一時間で着く。しかし二四九号は地震の被害であちこち寸断され、どれくらい復旧工事が進んでいるかわからないとトシユキくんが言うので、ぼくらは時間をかけて一旦県道七号を穴水まで走り、そこから七尾と輪島を結ぶ県道一号に乗り換えることにした。
相変わらず沿道には地震の爪痕が残っていたが、それは輪島の市街地が近づくにつれ大きく激しくなっていった。市街地に入ると沿道の家々は破壊され無傷で立っているものなんて皆無だと思われた。ぼくは車中からシャッターを切るのも忘れ、ただ茫然と流れいく風景を眺めていた。
輪島市の中心市街地に着いた。多くの車が行き交う。仕事なのか復旧作業なのかわからない。でも、これだけ傷ついた街に多くの人がいて、暮らしている紛れもない事実だと思った。そして表情は思った以上に明るかった。みんな前を向いている。そんな印象だった。
火事で焼け落ちた朝市通りに行ってみた。警察や消防の立ち入り制限を示す黄色や赤いテープが張り巡らされていた。ギリギリまで近づくために港側の浜通りに行ってみた。そこからは火事の被害にあった一帯が見渡せた。
焼け跡に供えられた花束の前で静かに手を合わせる女性がいた。目を閉じ手を合わせている。長い時間だ。おそらくここで近しい人が亡くなったに違いない。普段のぼくならその人の横顔を貪るようにカメラに収めていたはずだ。だけど結局は一回もシャッターを切ることはできなかった。その表情と風景に心を射抜かれたのだ。ぼくはここにいてはいけない。
すぐに移動をはじめた。道すがら報道でよく目にした横倒しに倒壊したビルの前を通った。車を降りて写真を撮った。この風景だけを見ると、七カ月経っても何も変わっていないなと思った。
でもこのまちで暮らし、生きている人が確実にいる。写真を撮っていると、犬を連れて通り過ぎていくおじさんが「こんにちは」と声をかけてくれた。こんにちはと返したが、通り過ぎていく笑顔がぼくには悲しかった。おじさんは自分に起きたことをちゃんと受け止めている。笑顔の向こうにどんな悲しみや苦労があるのかはわからない。でも、どうぞ頑張ってと思わずにはいられなかった。
空はとても青く澄んでいた。
「輪島ブルーだな……」
その色がまたしてもぼくの心を激しく射抜いた。空の青さがここで起きた悲しい出来事の痛々しさに拍車をかけているように思えた。

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