家族の日常

2月の終わり大阪で〈「揺れて歩く ある夫婦の一六六日」最終章〉というタイトルの写真展をすることになった。そのこともあって版元の出版社では本に挟み込む栞をつくってくれることになった。父の死後、ひとりきりになった母が詠んだ歌20首と日記の一文、さらに僕から母へのメッセージという構成だ。

メッセージか……。母が亡くなってそんなに時間が経ったわけでもなく、母のこと、父のこと、家族のこと、いろんなことになかなかけりをつけられずにいるのに……。

鹿児島でひとり暮らしをはじめた頃

お父ちゃんが亡くなってひとりぼっちになって七年。さみしいとこぼすこともなく、あなたは一日一日を大切に前向きに生きていました。でも、ほんとうはお父ちゃんが恋しくてどうしようもないあなたの姿が歌の中ありました。強くて元気なあなたと、さみしくて弱いあなたの間を揺れていたのですね。ごめんね、気づいてあげられなくて。
九十六歳を迎えたお正月、あなたにたずねました。生きるとはどういうことかと。あなたは即座に答えました。「自分の明日を自分の目で見ることや」と。そうして九十八まで元気に日々を数え、九十九歳は目前でした。百まで生きてほしかった。もっと歌を詠んでほしかった。
さみしいけれど僕は元気です。
お母ちゃん、ほんまにありがとう。

ようやくこんな文章を書き上げた。が、僕は両親のことについていったいどれほどのことを知っているのだろうかと、そんな思いが残った。
15歳で家を出て帰るのは年に数回。42歳で鹿児島に移ってからは1年に1度も顔を合わさなくなった。僕が家族を壊したのだ。両親のことなどわかろうはずもない。
母が90歳を迎えて穴埋めをするように歌集を出す手伝いをし、父に命に関わる大病が見つかってからは足繁く両親のもとを訪ね、不在の時間を取り戻すように慌てて話を聞きはじめた。そんなことで失った家族の時間が修復できるわけではないが、そんなことくらいしかできなかったのだ。最後まで親不孝な情けない息子だ。申し訳ない。
その一方で思う。親子の縁というのはどちらかが亡くなっていなくなったとしても消えるものではないな、と。親と子は、どこまでいっても親と子なのだ。
母は父の遺骨を納骨しなかった。「うちの骨と一緒に納めて」と。いなくなって、見えなくなっても、自分が生きている限り夫婦でいたかったのだろう。
僕はいま身近にふたりの骨壷を置き朝夕語りかけている。ようやく家族の日常が戻ったような、そんな気がしているのだ。

2023年1月27日配信〈揺れて歩くニュース〉より

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